昭島・日本史、八清ドキュメント


陸軍航空工省と青年実業家

昭和16年12月8日日本軍の真珠湾攻撃により大東亜戦争が勃発しました。
昭和19年には敗色が濃厚となった日本国内で、
アメリカ軍による空爆が頻繁におこなわれるようになり、

昭和20年、広島、長崎に相次いで原爆が投下されました。

8月15日、日本は無条件降伏し大東亜戦争は終わりました。

時代は昭和20年から7年さかのぼり、昭和13年、
昭島市(当時昭和村)に、大規模な軍需工場が建設されました。
昭和村には名古屋からの移転工場と、
そこで働く多くの人(家族)が、やって来ることになりました。

そんな時代を背景に、一面桑畑の片田舎に、
たくさんの人が住める住宅建設と街づくりが急務となりました。
そして、この建設計画は規模が大き過ぎて陸軍航空省内で
手に負えず、専門業者に全て委ねられることになりました。

土地の買収から、街づくり整備、住宅建設、
その後の賃貸管理まで全てを引き受けさせる計画でした。
いわゆる陸軍航空省、丸投げ政策だったのです。

このプロジェクトに、名乗りを上げる建設業者は
一社たりともなかったのです。
困りはてた陸軍航空省は、思案の末に、
「名古屋の工廠が移転するのだから、名古屋の業者にやらせればいいだろう。」
という半ば安易ともいえる発想で、一人の青年実業家にターゲットを絞るのでした。
軍としてはこれを逃したら後がないという悲壮な覚悟で臨みました。
その説得の方法は「郷土の人たちの住居建設という大義のもとに・・・」
という御触書で半強制的ともいえる内容で青年を口説き落としたのでした。
昭和村にニュータウン建設始まる。(昭和14年)
弱冠23歳の実業家は思案の末に、この依頼を受けました。
昭和14年から東中神の南に軍の名のもと急ピッチで土地買収が進みました。
そして道路の整備、下水道、上水道、住宅建設工事の全てが始まりました。
それは、日本の軍事施設拡大政策が
発端となり、突発的に出現した街でした。


昭和17年12月には全ての住宅整備が完了し、
落成式が行なわれ、請負人の名に因んで
八清住宅と名付けられました。
その数は、最終的には850戸も建設されました。
その後、青梅線を利用する人が増えるにつれて、商店が次々にできてきました。
八清の地域には市場ができ、それを中心に商店が並び、
福生・砂川・近隣の人々の集まる繁華街として、戦後は更ににぎわうようになりました。

青梅線東中神駅南口改札を出るとロータリー道路が整備され
アーケードのある商店街が外観になっています。(くじらロード商店街)


青梅線 東中神駅

アーケードのある商店街

くじらロード商店街
商店街は駅前正面に伸びず、西道路に面して
線路沿いに約150mほど左右に立ち並んでいます。

赤の部分がくじらロード商店街
黄色の部分が八清通り

アーケードがとぎれた道を左に
曲がると正面にコンビニがあり、
右に曲がるとすぐに信号があり、
良く見ると八清商店街入り口とある
こんなに近いエリアにまったく別の
商店街が2つ、しかも駅前とはつながらない
カギ型の信号から突如として現れた八清商店街

取材を追って行くに連れて昭島の歴史にとどまらず、
昭和の歴史が見えてくる
何とも感慨深い街なのです。

では現在の八清通りをご紹介いたします。
商店街の名誉のために一言申しますが

雨上がり、日曜日の午後に撮った写真ということで
何とも活気のない写真になってしまいました。
平日は活気のある繁華街です。

正面車の通る道が江戸街道
道路右から曲がってきて
八清通りに入ったところ
正面まっすぐが
八清通り商店街
マルフジと多摩信用金庫
が通りの奧にある。
グルッと一周、八清ロータリー!

東西南北
放射線状に伸びる
道路は八本!

八日市屋清太郎の
こだわりが伺える。





ロータリーがある住宅街は
昭和13年
八日市屋清太郎氏が考案したプロジェクト。
当時としては画期的な近代ニュータウンだった。
もしこのロータリー住宅が普通の住宅都市計画だったら
時代に同化され消えていったことでしょう。



八清通りを南に下り少しすると、東側にロータリーが見えます。
このような場所になぜロータリーがあるのかと疑問に思いますが、
八清の住宅街の名残で、この場所を中心に街を建設していきました。
そして街をつくった、
八日市屋清太郎
という人の名から八清住宅と付けられたました。

今では、道路とロータリーくらいしか当時の町並みを残すものはありませんが、
ここを中心にして放射状に、家族用や独身用の住宅が850戸も建てられ、
東は昭和公園、西は福祉会館辺りまで、瓦屋根の長屋が建ち並び、
突然、近代的な街ができあがりました。中心地には、
公衆浴場、
映画館、市場(八清通りと旧江戸街道に沿った南一帯)
まであり、
正月などは、現道路の歩道ぐらいの幅しかなかった旧江戸街道は、
そこを目指すたくさんの人々の行列が、長くつながったそうです。

それにしても
八日市屋清太郎って、
いったい何者なの?

わずかながら面影を残している商店。

マルフジ周辺は夕方になると活気があります。


昭和30年頃の江戸街道は未舗装で幅2mの道でした。
中央下の道が左斜めに伸びている道が江戸街道です。
現在畑はガソリンスタンドと紀伊国屋駐車場になっている。
昭和30年頃、
注目して頂きたいのは
三田履物店です。
現存する東中神、
最古のお店です。
道路拡張のため店は
随分と削られてしまった。

お店を経営されているのは
大正4年生まれの三田春次さんです。


三田春次さんのお話し!

昭和16年頃の
上空から撮った
中央上が
八清ロータリー
650戸から
最終的には
850戸建築された。

写真、中央が
旧奥多摩街道。

昭和20年
昭島空襲で
消防署周辺に
爆弾を落とされる

アメリカ軍の
軽戦闘機グラマンが
低空で偵察飛行。

その後B29が襲来
西川製糸、
八清住宅、
立川航空工廠に
無数の爆弾を落とす。

八清通り今・昔

水色縁取りの写真はクリックすると拡大されます。

八清通り商店街。
江戸街道、
今の八千代銀行
方向に撮った写真。
現在の
玉川会館
噴水前。
現在も、
昭和湯のある
場所に
あった、
八清浴場。

昭和中学方向に
向けて撮った写真
商店街は今も
健在です。
中央に空調の為の
突起物のある
建物が映画館です。
現・みどり会商店街
七福寿司一帯

映画館だった。
中神方向からから立川に
向かう江戸街道途中
ネッツトヨタ信号を
右に曲がった三角形の
地帯が、八清女子寮だった。

太平洋戦争と昭島の産業
太平洋戦争が始まると、軍需品の増産が至上命令となり、
生産の増大が各工場に求められるようになりました。
昭島の工場は、昭和19年には、24を数え、さらに2つの工廠があり、
「東京」の内陸工場地域として、軍需産業都市として発展していきました。
今は昭島森タウン北にあるインドアテニス、スケートリンクなどがその工場の名残です。
昭和記念公園になる前の立川基地(米国占領下)の
今は無き格納庫も、以前は日本軍所有でした。
下の写真は、立川基地時代に一般開放になったときの貴重な写真です。

軍需工場では、工場を拡張するとともに、従業員を増加させ、生産力を高めました。
それに伴い、従業員のための「住宅」が大量に必要となってきました。
工場の近くや青梅鉄道に沿った畑や雑木林が半ば強制的に買収され、住宅地へと変わっていきました。
上ノ原、昭和郷、金鵄、堀向、八清などは計画的な開発による住宅街で
現代のニュータウンのはしりともいえます。


五日市鉄道と西川製糸
昭和5年(1930)に立川〜拝島間が開通して、惜しくも昭和19年に廃止となりました。
五日市鉄道は、八清の南を横切り、東は
「武蔵福島駅」西は「南中神駅」(現 JA北)
間の沿線の人たちにも八清通りは利用されました。
昭島市域は、江戸時代より養蚕が盛んに行われ、大正8年(1919)には、昭島の
蚕種の産出量は、北多摩で生産された蚕種の、春期53パーセント、
秋期63パーセントを占めていました。
これは、当時の東京府蚕種産出量の3分の1にあたるものでした。
北多摩でも、有数の大工場で、輸出先であり、ストッキング用に
質の高い生糸を大量に必要としていたアメリカでの、
生糸の品質の良さが高く評価されていた西川製糸が、
現 わかくさ保育園近辺にあり、その関連で、

2千人以上の女工さんを抱える住まいがその北に
存在し、八清地域が買い物、憩いの場所として栄える要因にもなりました。
戦争前後において、八清地域は、いろいろな人たちの生活文化、物流文化の面で、
昭島市のなかでも、屈指の人口増加と、娯楽、子供たちの夢に貢献した地域でした。

敗戦後、八清住宅は払い下げられる。
敗戦後、工場で働いていた人々や家族は、昭島の地域を離れていきましたが、中国や朝鮮
など、海外から引き揚げてきた人や家族、空襲により家を焼かれてしまった人々が新しく
入ってきました。このような人たちのために、軍需工場の施設や八清などの工員住宅が
払い下げられました。
戦後も尚、八清住宅周辺には市場や商店街が引き続き発展しました。

昭和29年八つの村と拝島町が合併して昭島市になる!
昭島の復興に貢献したのは、昭島の地域が食料生産地帯であり、
他の地域に比べると食料の確保が安定していたのと、
立川飛行場(現 昭和記念公園)に駐留するようになったアメリカ軍による、
立川基地の工事量の増大による建設業の発展です。
戦後の都市の再建や、住宅不足を解消するための建設ラッシュにより、多摩川の品質の
良いことで評判だった砂利の採取も、復興要因の1つで、他地域より恵まれていました。
昭和29年八つの村と拝島町が合併して昭島市になりました。
そのときの
市制パレードは、市内屈指の繁華街、八清通り商店街でした。

昭和公園内円形スタンド
昭和公園の西門を入ると、
円形の土手で造られたスタンドのある施設があります。
昭和24年(1949)、戦後初めての国民体育大会(国体)が東京で開かれました。
このスタンドが、
相撲種目の会場になりました。ここは、この後相撲以外でもプロレスなど、
いろいろな興行が行われ、八清の文化の一部ともなりました。

後世への語り継ぎ
思い出文集・玉川小の自然児たち 


昭島の歴史と近代日本史年表
誤字・文章表現の修正が未完了です。
ご了承下さい。

昭島市内と周辺の出来事 日本、アジア、ヨーロッパの出来事
1853 拝島村の栗島彦八郎 ぺりー来船
1867(明治元年)
大政奉還・明治維新 戊申戦争
1969(明治3年) 玉川上水の輸送運搬船
1870(明治4年) 廃藩置県
1877(明治10年) 西南戦争
1889(明治22年) 甲武鉄道開通 現JR中央線 大日本帝国憲法の発布
1893(明治26年) 西川製糸創業
1894(明治27年) 青梅線開通 拝島駅設置
1895(明治28年) 昭島と日清戦争
日清戦争
1905(明治38年) 昭島と日露戦争 日露戦争
1908(明治41年) 青梅線中神駅新設
1914(大正3年) 第一次世界大戦
1916(大正5年) 電気供給開始
1927(大正12年) 関東大震災
1925(大正14年) 五日市鉄道(拝島〜五日市)開通
1929(昭和3年) 昭和村ができる・昭和の大恐慌 世界的大恐慌
1930(昭和5年)  五日市鉄道(拝島〜立川)開通
1931(昭和6年) なかがみ坂の石垣が完成 満州事変
1932(昭和7年) 満州国成立
1936(昭和11年) 2・26事件
1937(昭和12年) 青梅線昭和前駅(旧昭島)新設 日中戦争
1938(昭和13年) 名古屋工廠が昭島に移転する。 
1939(昭和14年) 八清住宅着工 工事始まる。
1940(昭和15年) 名古屋工廠は陸軍航空工廠と改称 
金鵄住宅完成、拡大。
1941(昭和16年) 太平洋戦争と昭島 太平洋戦争(第二次世界大戦)
1942(昭和17年) 青梅線東中神駅新設
1944(昭和19年) 五日市鉄道(拝島〜立川)廃止
1945(昭和20年) 昭島市内、空襲にあう 太平洋戦争終戦
1947(昭和22年) 町立昭和中学校、村立拝島中学校創立
1954(昭和29年) 昭和町と拝島村が合併して昭島市となる
昭島市・空襲にあった人の話し!
写真・「昭島市民秘蔵写真集」昭島市民会館文化事業協会
個人写真提供・山本明 小野豊  
ペン画・関谷 和

  
 参考文献
「昭島の歴史」昭島市教育委員会
思い出文集「玉川小の自然児たち」(昭和19年玉川小学校卒業生)

<あきしま・街づくり市民会議・なかがみ>
制作・幡垣 誠  田代教昌
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