西南戦争
明治10年(1877)
明治政府は廃藩置県により、近代国家と西洋の軍隊制度を取り入れました。
西郷隆盛は陸軍大将として参議権持ち、維新政策そのものに強い影響力を
持っていましたが明治6年に征韓論争で旧友、大久保利通と意見が対立し辞職しました。
その後は国元へ帰り、質素倹約を勤め百姓をしていましたが、
政治の腐敗や元藩士達の不満が各地でおき、西郷、自らが内乱の指導者として、
維新政府と闘い、破れて自害しました。西郷は政治家としても有能でした。
人間的にも人望が厚く、庶民的で質素倹約で私生活においても決して権力に
おごれることはありませんでした。

征韓論ってなに?
歴史の教科書を読むと「西郷隆盛が征韓論を称え
明治政府と対立、後に西南戦争を起こす。
西郷は征韓論者であった。」と書き記してあります。
征韓論という言葉の意味がいかにも韓国を征服し
国益主義というイメージを持たせます。
しかしその後の明治政府はその征韓論を実行します。

歴史を振り返ると、西郷は征韓論者ではなかったようです。
むしろ、中国、韓国とアジア三国同盟を結び、
列強国からアジアの主権を守るという思想を持っていたようです。

残念ながら、明治政府は西郷に大使として、韓国外交を
認めませんでした。もし西郷の考え方を重視して
アジア三国同盟が実現していたら、中国・韓国との歴史は
まったく違うものになっていたかもしれません。

西郷隆盛の遺訓

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困る者なり。
この仕末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。


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