関東に大地震
大正12(1923)年、9月1日、
「鍋にはいっていたうどんが、
全部外にこぼれてしまうほどの激しい揺れがきた。
外に飛び出し竹やぶに逃げようとしたが歩けず、
地面に四つんばいになって、やっとたどりついた。」

という激しい地震が起こりました。家がつぶれることはなかったものの、
土蔵の壁土はすっかりはげ落ちていました。

震源地から離れた多摩の地域でもこのような状態でしたので、
震源地に近い東京では、建物が倒れ、正午前であったため、
昼食を準備するための火から火災が発生し、一面火の海となりました。

昭島から東京方面を見ると、地震雲が空高く舞い上がり、
夜にはそれが燃えさかる火により赤々と見えたと言います。
大正の初めに建てられ、昭島の地域のシンボルにもなっていた
西川製糸の大煙突も倒れてしまい、今の市営プールの付近には
一メートルをこす地割れができたということです。

この関東大震災による被害は、死者約十四万人、
家が焼けてしまった罹災者は、三百四十万人にもなりました。
大地震後、何度も起きる余震のために、家の倒壊を免れた人々も、
家の中にいることができず、外にかやをつって、その中で不安な夜をすごしました。
( かや・夏の夜)
冷房のない時代には、窓を開け放して寝ることが一般的でした。
そのため、麻でつくられたかやをつり、蚊を防いでいました。


鉄道の北側に非難した人もいましたが、
情報産業の発達していない時代でしたので、
混乱の中で確かな情報も伝わってきませんでした。

そのような時に、
「社会主義者や朝鮮人が騒動を起こした」
「井戸に毒が投げ込まれた」
などの流言がまたたく間に伝わってきました。
関東の各地で住民が自警団を作り、朝鮮人の来襲に備えました。
しかし、地震の不安からパニック状態に陥っていた人々は、
朝鮮人を見つけると襲いかかり、多数の朝鮮人が
殺されるという悲さんな事件が起きました。

昭島の地域の村々でも、地震からほぼ一週間ほどの間は、
消防団員が夜間の警備に動員され、警戒にあたりました。
昭島の地域では、幸い地震による死傷者も出ませんでした。
村の人々は、白米や木炭などの品物を集め、被災地に送りました。
また、避難してきた人々を受け入れ、その世話をしました。
中神村組合で百四十名、拝島村で百十九名の人を受け入れました。

関東大震災での流言
明治四十三(1910)年、日本は韓国を併合し、
朝鮮半島全土を日本の植民地にした。
日本の法律により、土地を奪われふるさとを
追われてしまった人々がたくさんいた。
そのような人々が、職を求め、日本に数多く渡ってきていた。
しかし、日本人によるそれらの人々を差別する行動が多くあり、
その負い目からこのような流言が生まれた。


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