住宅街の管理事務所はロータリーのある中央部に設置された。
中央ロータリーの発想は八日市屋清太郎が当時(昭和13年)パリで開催されていた
万国博覧会を外遊したことが八清住宅街づくりに繁栄されていたと思われます。
イタリアのローマ街並の発想ともいわれています。


いずれにしても、人が群がり待ち合わせた噴水前は
現在の渋谷ハチ公前といった処でしょうか・・・


右はじの若い軍人さんの像は
中国大陸で亡くなった弟さんの慰霊をかねて
創作した作品ではないかと思われます。

清太郎自身は徴兵されることなく終戦を迎えます。
わずか23歳の若さで街づくりを陸軍から
依頼され、見事にやってのけた清太郎ですが、
愛する弟との別れと悲しみは以後、
信心深く愛情に満ちた人間として、
清太郎を飛躍的に成長させたと思われます。

水の出る蛇口は街の至る所に設置され、
いつでものどを潤すことができたのです。
この蛇口の付いたミニモニュメントは
興亜の泉と名付けられました。

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