戊申戦争(1867年)
 日本の新時代の覇権を巡る、この、新政府軍対旧幕府軍の戦いは、
明治元年1月、京都・鳥羽・伏見でその戦端を開きました。
大政奉還以後、旧幕府の領地を没収する政策を取った維新政権に対して
徳川慶喜は抵抗の意を表明し開戦に至りました。
近代兵器を装備した新政府軍は緒戦に勝利し、4月、江戸は無血開城しました。
この無血開城により徳川慶喜の政権参加と、幕府の力は無くなりました。

 その後東北諸藩(奥羽越列藩同盟)が新政府への反発を強め、
さらに旧幕府海軍副総裁、榎本釜次郎が、当時日本最新鋭、
最強を誇った幕府海軍艦隊を率いて江戸湾を脱出。

函館に上陸すると、ここに日本初の共和政府を樹立し、
新政府からの独立を宣言し、戦線は北上しました。

奥羽、越列藩同盟は、新潟、長岡、会津の戦いに次々と敗れて降伏。
旧幕府軍の最後の砦となった函館共和政府も、その頼みの綱であった海軍を、
突風による座礁沈没により旗艦開陽を失うなどして壊滅させてしまっていました。
 函館五稜郭は開城され戊辰戦争の幕を閉じました。


土方歳三
戊申戦争最後の闘い五稜郭には土方歳三がいました。
徳川家茂、京都護衛の浪士から始まった新選組ですが、
新選組で生き残ったのは土方歳三だけでした。
五稜郭、最後の闘いでは敗戦濃厚の自軍を押しのけただ一人
城の外へ突撃し、鉄砲のマトとなり自害に果てました。
(1835年-1869年) 享年35歳。


歳三は昭島にも近い現在の日野市、石田村に
豪農の6人兄弟の末っ子として生まれました。
24歳で天然理心流に入門、剣術を磨き上げ、
新選組副長としてその名を残しました。

天然理心流師範 伊藤彦右衛門。
天然理心流といえば昭島の宮沢にも江戸時代末期に
天然理心流の師範、達人がおりました。

伊藤清三郎家の四代前当主、伊藤彦右衛門。
幕末から明治初年、内藤藩に師範として出仕していました。





昭島歴史探訪部会のページ

戻る