武蔵の国、信玄伝説                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

1568年、武田・今川・北条の三国同盟を破棄し、駿河の国に侵攻、
北条氏と敵対関係になり、合戦の末、駿河の一分を領土とした。
翌年、二万数千の軍勢で、上野の国、鉢形城を攻撃し青梅街道から武蔵
の国、拝島大日堂に陣を敷いた。
滝山城主、北条氏照は、多摩川北対岸の信玄陣営に動きが見られないと
考え、秋川檜原で、武田軍を待ち伏せしたが、武田家臣小山田信茂が、騎
馬隊二百・歩兵九百で、高尾山・小仏峠をこえて、奇襲攻撃を開始した。
現在の八王子長房、廿里峠において、壮絶な合戦を繰り広げ、この奇襲
作戦により、北条軍は翻弄され、滝山城は落城寸前まで追い込まれたが、
辛くも本丸を死守した。
信玄は、小田原城攻撃を旗印に、滝山城から撤収し、小田原城に向った。
小田原城は城主北条氏政の篭城により、攻略出来ぬまま撤収した。
帰路の途中、相模の国(神奈川県)三増峠で待ち伏せしていた北条氏照軍を
返り討ちにして、甲斐の国に帰還した。
向かうところ敵なしの信玄は、一五七二年、徳川家康に三方原で勝利を納めた後、
上洛寸前で病に倒れ、天下統一の夢、ここに終わった。
(享年五三歳)

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