拝島歴史探訪



拝島大師

立川方面を撮影
拝島 旧日光街道


始めに
昭島市は昭和29年、拝島町と8つの村が合併してできました。
他の地域は小さな部落の集合体ですが、拝島だけは少し様相がちがいました。
玉川上水は江戸の庶民の飲み水として徳川幕府が開削、1年と数ヶ月で1653年、完成しました。
当時、拝島周辺は小荷田付近から湿地帯で、あまり住みよい環境とは言えませんでした。
しかし玉川上水完成により、拝島周辺の環境はより良い環境整備の下地が整ったのでした。
地元民達の強い要望で拝島に分水を引き込む計画は実行されました。
1655年、拝島分水は完成しました。
このことは徳川幕府の政策により、拝島は意図的に大集落として生まれ変わって行きました。

日光街道は二つある
徳川幕府の最大の目的は八王子から日光まで往来する千人同心の通り道としての宿場街でした。
元々千人同心が往来する経路は江戸千住回りだったのですが、拝島の整備が完了と同時に、
拝島ー川越回りに変更されました。
その後1706年に千住回りに変更されましたが、再び1718年再び拝島回りに変更されました。
拝島大師のある街道は旧日光街道と呼ばれています。
つまり日光街道は千住と拝島二つあるということになります。
宿場街が形成され、人の往来が盛んになると、経済が発展していきます。
江戸時代、拝島には市が開かれ、穀物や青梅縞目など取引が盛んになりました。
このような背景のなか、時代の申し子のような存在も現れました。
中神村の中野久次郎は大尽と呼ばれるほどの大豪商になりました。
それは拝島、八王子の市場発展にともない青梅縞目などの特産物の仲買によるものでした。
久次郎は次代背景を追い風にして、5代〜7代目で全盛期を迎える事となりました。
このように拝島は昭島市の中で歴史経済の中心地だったと言えるでしょう。

鎌倉時代から戦国時代までの拝島

昭島市内で、宮沢村・大神村と共に、板碑が多く発見されているのは、拝島村です。
このことからも、拝島村は鎌倉時代から集落があったことがわかります。
拝島という名の由来は言い伝えによると、玉川の中州に大日如来観音像が流れ着いた。
これを辻堂に安置して、拝むようになった事から、「多摩川、中州観音様をんだ。」ということから
拝島という地名が生まれたと言われています。
それはおそらく1200年〜1500年前後の事だったと思われます。
北条氏照滝山城主になる
1560年(永禄3年)北条氏照が、正式に滝山城主になった年と伝えられています。
有名な史実では織田信長が桶狭間の闘いで、今川義元(1519〜1560)を討った年でもあります。
1561年関東管領上杉憲正から管領職をうけた長尾影虎(上杉謙信)が北条氏征伐のため
11万の軍勢で関東にやって来ました。
上杉軍の勢いに、北条方についていた、多くの豪族は関東管領上杉方に付きました。
ところが上杉軍が関東から一掃して越後に帰還してしまうと、諸豪族は北条方にすぐさま寝返りました。
しかし、関東管領に付く豪族もいました。
青梅の守護大名だった三田氏は関東管領に付き、北条氏と対立しました。
領主、三田弾正秀綱は北条氏照と戦になり1563年、辛垣城(からかいじょう)落城により、
青梅の地を去り、後にほろぼされてしまいました。
その後、北条氏照は関東管領側に取られた領地を奪い返すため、反撃に出ます。
関東一円に出陣して、北条氏の志気を執ったのが、氏照でした。
その後、北条・上杉の越相同盟を氏照が結びました。
今川・武田・北条の三国同盟は破棄され、武田氏との対立が表面化して行きました。
武田信玄、拝島大日堂の陣を敷く
1569年(永禄12年)、武田信玄が北条攻めの最、拝島の大日堂に陣を敷きました。
滝山城と拝島は多摩川を挟んでいますので、「本気で戦を仕掛けてはこないだろう」と、氏照は考えました。
当時の多摩川は馬で渡ってこれるような川ではありませんでした。
北条氏の忍者は武田陣営を偵察し、氏照に情報を伝えていました。

この時代、北条氏照の重臣、石川土佐の守が拝島・大神を豪族として支配していましたが、
武田軍にさしたる抵抗もできなかったと、思われます。
石川土佐の守の指令本部と思われる、大神付近、東勝寺、観音寺は焼き払われてしまいました。
しかし本陣を敷いた、拝島大日堂とその周辺のお寺は無傷だった様です。
基本的には沢山の軍勢達の宿泊施設として、神社仏閣は好条件を満たしていたと言えるでしょう。
当時の戦国大名は農平民をむやみに危害を加えるようなことはしませんんでした。
地元の百姓は差し入れなどし、武士は安全を保証しました。

大日堂は滝山城からすると鬼門除けに位置します。
その大日堂に本陣を敷くと言うことは北条氏照にしてみれば屈辱的な事だったでしょう。
しかし、大日堂から兵を大量に滝山に送るのは大変な労力が必要で、北条方に動きだしが
丸見えの状態になってしまいます。
北条氏照は小河内もしくは檜原からの侵攻を予想、滝山街道に陣を敷いて、くい止める作戦でした。
どう考えても両軍は武田軍が大日堂に陣を敷いてるかぎり戦にならないという図式でした。

信玄の奇襲戦法、廿里決戦
一方、信玄の武将で岩殿山城主・小山田信茂は小仏峠を越えて滝山城に向かっていました。
当時の常識としては小仏峠の険しい一本路を大軍を率いて超えることはあり得ないと思われていました。
当時は峠道さえ無く、獣道だったのが、小仏山頂でした。
不意を付かれた北条方は氏照が命じて横地監物・布施出羽守らが急ぎ300騎と2000の兵を引き連れて、
これを廿里(とどり)の原で迎え撃とうとしました。

しかし、すでに廿里山は小山田勢がいち早く陣しており、騎馬200と歩兵900を巧みに配備して
北条軍を逆に迎え撃ち、北条軍は野村源兵衛や金指平左衛門らの勇将を討ち死にさせ、散敗をきっしました。
この時に小山田軍があげた首は251といわれ、信茂は200騎を40騎ずつ5手に分け、前方・側面・後方から
激され、滝山二の丸付近まで破られてしまいました。
滝山城は難航不落の城と思われましたが、一説によると当時としては新兵器、鉄砲の威力に北条軍は苦戦し
抗戦する武将が次々に討ち倒されてしまい簡単に郭を破られ一気に二の丸まで攻め込まれました。
しかし、この二の丸の門前で、勇敢にも氏照自身が自慢の槍を振るって甲州勢の猛攻を退けました。
武田軍も無傷とは言えない状況で、北条方の必至の抵抗に深手を追わないうちに、退去しました。

「廿里山」はJR中央本線・高尾駅から八王子城方面に進むと武蔵野陵の向かいにある小山です。
合戦時には小山田勢によって砦・陣場が築かれたと思われるが、その面影はありません。
激戦地は現在の長房町付近の平地であるといわれています。


滝山決戦後の武田信玄の動向・・・・武蔵の国、信玄伝説
徳川家康も歩いた拝島
徳川家康が、府中御殿から、八王子や滝山古城を訪れ、川越に行く途中、平(たいらの)
八郎左衛門宅で小休止された。
それが縁で、多摩川の渡し船から川越まで案内をしたというので、金の御銭を頂いたと
「武蔵名勝図会」に載っています。
ですから、この通りを、徳川家康が歩いたと考えてよいのでしょう。

1590年北条氏は小田原城で豊臣秀吉に籠城の末、開城降伏します。
北条氏政・氏照は切腹、氏政の子、氏直はかろうじて命だけは助けられます。
秀吉は戦勝の手柄として家康に領地を与えます。
それが関東の未開拓地でした。
家康は治安の不安定な関東に新しい領主として、相模・武蔵の国で厳しい制作を打ち出しました。
それは厳しい武田の残党狩りでした。
武田の家臣団が農民になりすまし、お家再建のため潜伏しているらしいという噂がありました。
そこで、家康は先ず第一の政策として戒厳令をしきました。

その後、一転して家康に背くことのない家臣団達を召し抱える政策転換をしました。
八王子の宿場町は武田武士団の集落という構図が出来上がりました。
二代将軍徳川家次の時代に、千人同心として普段は農民、警護業務発令時は二本差しの武士という
特別な組織集団を編制させたのです。

宿場町だった拝島
現在は八王子から拝島橋を渡ると旧奥多摩街道を横切り奥多摩街道にぶつかります。
以前はここで左折して拝島の町なかを西進し、およそ1キロメートル行くと道は大きく
右にカーブし、奥多摩街道と分かれて北進しています。このように、町の両方の出口が
それぞれ大きくかぎ型に曲がっているのは、この時代の宿駅の典型で、拝島村が宿駅で
あったことのなごりです。攻めてくる敵に備えての防衛的な意図があったといわれて
います。高橋源一郎の著書「武蔵野歴史地理」には、「ここ拝島は、市場としては誠に
典型的の場で、南、八王子の方より来れば、下宿の入口にて道路は画然一屈曲し、
これより西北中宿を経て上宿となり、上宿の出口で又一屈曲している。用水路が道路の
中央を流れていた」と記されています。


八王子より拝島村を通り北の箱根ヶ崎へと抜けて行くこの道は、八王子の千人同心が
日光への往還に使った道であり、日光街道とも呼ばれていました。
拝島の村は、その宿駅としての役割を持っていました。
したがって、拝島村は町場の景観を持つようになり、家の数は、1841年(天保12年)
に159軒ありました。それぞれの家は街道に沿って並んでいましたが、農業を兼業して
いる家が大部分でした。
農作物を売り、貨幣を得ると共に、生活に必要なものを買ってくる場は、八王子の
市(いち)でした。八王子の市のたつ日には、拝島の渡しや築地の渡しの船で多摩川を
渡り、八王子まで穀物やその他の農産物を売りにでかけました。
各村では、農閑期の婦女子の仕事として、機織(はたおり)が盛んに行われていて
昭島で織られていたのは、絹織物の青梅縞(おうめじま)や黒八丈(くろはちじょう)でした。
これらの織物は、江戸へ反物(たんもの)として出荷していましたが、拝島は
この織物の出荷場所として機能を持つようになり、市(いち)が立つようになりました。

宿場町拝島の規模
多摩川を挟んで八王子と対峙する要所である上に、多摩川・秋川の筏運上の集積場及び
筏(いかだ)人足宿でもありました。その人馬往来の頻繁は村営の「渡船」からあがる収入の
大きさが物語っています。
村渡船には馬船(荷馬1銭2厘、荷車9厘)と、歩行船(6厘)各1艘がありましたが、
明治11年には1年間の利益が多く、それを使い村請けで川上水の石垣改修をすると県に申し
出るほどでした。
県とは、実はそのころ拝島地区は神奈川県だったのです。



そのため「明治16年神奈川県告台2号2基ク取り調べ」に、人の往来の盛んな拝島村は、
江戸期より農間余業(農民の副業)が発達していた、とあります。
当村の寺社を含んだ総戸数は239戸であるが、その約半数が農業外に何らかの余業を
持つか、農業外で生計を立てていました。
それを業種別に分類すると、次のようになります。
明治16年、旅籠屋9(内、料理屋を兼ねる2戸。
小林源兵衛と小林林兵衛が大きく、芸妓も置いていました。

飲食店15、商店(小売・卸売り)45、蚕種1、損料屋1、質8、古道具2、古着屋5、
生糸製造1、織物業3、酒造1、醤油製造1、大工9、糸撚職4、その他の職人22、
水車6、湯屋2とあり、その当時としてはかなり大きな町だったことが伺えます。
新しい事業として、人力車がありました。
拝島村には、明治15年(1882)、32人の人力車夫たちがいました。
1つの村にしては多い人数で、それだけ利用する人々がいたあかしです。
東京で人力車が増えだしたのが明治4,5年頃で、拝島では、明治7年頃から営業願いが出されていました。
残されている運賃表には、地名と距離と運賃が示されています。
箱根ヶ崎 二里 25銭  青梅 三里半 50銭  川越 七里半 1円 とあります。


八王子千人同心と拝島
拝島の現集落は、東西に細く長く位置しているが、西が高く東が低くなっています。
穏やかではあるが、凹地の中央部の、古い多摩川の底部に当たる場所に位置しています。
今日でも雨期や大雨の時湧き水があり、街路北側の各戸には、それを排水するための溝が
常設されています。過去の大雨の時には天神社境内では、子供が水泳をしたほどの湧き水が
あったといわれています。
集落が成立するまでここは細長い湿地であったと思われます。




小荷田の田園 昭和20年代

現在の「拝島の宿」がこのような場所に成立するためには、何らかの策を講じ、それを
克服しなければなりませんでしたが、そうまでして集落を成立させた、社会的、経済的
必要性は、八王子千人同心の存在でした。
八王子千人同心の任務のひとつは徳川家康の遺骸が安置された日光廟(1616)の
防火、警備でした。正式には承応元年(1652)から慶応4年(1868)までの
217年間、1030回にわたり交換勤務が行われました。拝島、松山、佐野を経由した
片道40里あり、千人同心はそれを3泊4日かけて勤務に就きました。
その宿場として拝島宿が必要となりました。
拝島は多摩川を挟んで八王子に対峙し、渡し船や、伝馬継立の場として重要な位置にあったため、
地形上の悪条件を乗り越えても宿場を成立させる必要があったのでしょう。
当時拝島には60頭もの馬がおり、八王子までリレーとして乗りついだそうです。
宿場の形態は大がかりなもので、東西2ヶ所で鍵型に屈曲する街路は周辺の村落と異なり
最大幅16メートルもあり、その中央部石垣を施した水路(玉川上水拝島分水)が
貫流していました。



昭和初期分水は両脇に移動している。


この規模の大きさは、この事業が1村落を越えた権力と意図によるものであったことを
示しています。拝島宿は新たな集落であるから、無住の、既存の集落地ではなく、集落
立地に不向きな土地であったからこそ、そこを改善して、全く新たに計画的な地割りや
掘割を含む幅の広い街路等をもった宿場の建設が可能だったようです。



宮様や貴族の方々のお住まい
拝島は、伏見宮(ふしみのみや)、山階宮(しなのみや)、三井男爵家、糸井弁護士、
その他数件の別荘がありました。拝島というところは三多摩で特異に環境がよいところでした。
風光明媚な場所であり、五日市鉄道が、南拝島駅から滝山城を経て東秋留にいたるハイキング
コースとしても都心の方の注目がそそられたようです。
その当時ある人が都内から越してきて、拝島の通りを歩いたそうです。
両側に水がきれいに流れていて、そこにアヒルが泳いでいる。水車がいくつもあって、
黒門の家もあって、上の方を見ると、御嶽と大嶽の山がくっきり見えて、なんていい所だろうと思ったそうです。
(昭島の歴史 104ページ 写真)
伏見宮別荘は、後に山階別荘になりますが、昭和2年(1927)、三井家別荘に組み込まれました。
三井家は、この年に、東京の麹町区(現千代田区)にあった鍋島邸も買い取り
拝島に移築しました。鍋島邸は、鍋島公爵(こうしゃく)が明治25年に建てたものです。
木造2階の和風建築ですが、応接室をはじめ西洋のものが多く取り入れられ、明治時代の
建造物として貴重な建物です。これが啓明学園にある北泉寮(ほくせんりょう)で、
国指定登録文化財に指定されています。
啓明学園は、昭和15年に港区赤坂に小学校を開設し、翌年、中学部と高等女子部を
設置しました。昭和18年に、拝島の三井家別荘の土地と建物の寄贈を受け、中学部が
拝島に移転し、寮教育をはじめました。
この時より、北泉寮が啓明学園の施設として使われるようになりました。
現在は、啓明学園と「北泉寮を守る会」により、その保存と維持が行われています。
  
上宿の山王様という小さなお宮があって、そこへ伏見宮様が別荘をこしらえるというので、
その地区には丸木普請という大工さんがいないため、わざわざ岐阜から70人ぐらいが来ました。
近くの民家の蚕室へ皆寝泊りして、別荘をこしらえました。
別邸が出来上がったときには、本当に優雅で、川原の方へ行くと岐阜ちょうちんを
連ねてきれいだったそうです。
宮様がいらっしゃるときには通りに水をまいたり、掃いたり、村会議員がはかま、羽織で
みんなでお出迎えしました。東京へお帰りになるときには、みんな子供が蛍を頼まれて
とって、おみやげにして、それで宮様の御紋のついたお菓子をもらうのが楽しみでした。
伏見宮様は、川あそびによく行きまして、そうすると別邸の周りに岐阜ちょうちんをずぅっとぶら下げて、
それを夕涼みがてらに皆で見にいき、宮ざまがどこかにお出かけに
なるときには、テレビなどに出る矢絣(やかすり)の着物を着た女官が7〜8人ついて
拝島の通りを通って、とてもすてきだったそうです。
拝島の人たちに、「優雅な気持ち」を、もたせてくれる存在だったようです。
拝島の人たちのくらしぶり
表の川の水を利用して、水車が8軒ありました。
水の流れには、鮎(あゆ)やウナギやハヤも泳いでいました。
大正12年ごろ、拝島に12軒くらいの駄菓子屋がありました。
八百屋とか魚屋でも、駄菓子を売っていました。
拝島大師の大師公園にあるトイレのところに、古い銭湯がありました。
格子窓があって、川のふちにふろがあり、大日湯ともいうし、薬湯ともいうし
お湯屋ともいいました。創業が、明治42〜3年頃で、薬湯という上に、鳩麦等を
主として漢方薬として使用し、入れて宣伝したそうです。
当時、熊川の製糸工場の女工さんが休日に遊びに来て、ふろに入って食事をしたりして
すごくにぎやかだったそうです。また、大師様の講中の人が、護摩をたきに来て、まず
ふろに入り、お茶等を飲んでから、一休みして大師様へ行き、埼玉、群馬等の人が
自転車等で高尾山等へ参詣する人がその当時多く、その人たちが途中一泊して、翌日出
発したりしました。
また、大神、中神の蚕種家、蚕の種屋の家からお客を送り込んできて泊まらせたり、商人が
立ち寄り泊まったりもしました。
大師の入口に「宇治川」というすごい料理屋がありました。
この宇治川は、拝島宿の威勢のいい時期、百畳敷きの座敷があって、それで女中というか、
置き女というか、いっぱいいて、飲めよ歌えよと、三味線で随分にぎわったそうです。
大師の池のところに大きな割烹料理屋がありました。創業が、明治36年11月9日。
明治後半から昭和初期にかけて、座敷をつくり、池に舟を浮かべ、女衆を4〜5人置いて
お客さんは、拝島、昭和、福生、熊川、砂川の旦那衆が主だったそうです。
玉川屋といういかだ乗りの船宿がありました。多摩川、秋川の上流からいかだで下がって
きたいかだ乗りが、毎晩、十何人かで酒を飲みあかし、泊まっていたそうです。
豆絞りの手ぬぐいで鉢巻をし、印半てん、もも引き姿で、中州の柳の陰からいかだとともにすっと
あらわれ、まるで絵をみているようだったそうです。
八王子へ通じる稲荷坂の途中に茶店(ちゃみせ)ができて、だんご、あめ、カルメヤキ
すしなどを売っていて、みんながあるいて八王子にいくとき、大概そこで寄って食べたそうです。
坂下というところに、昭和初期になんと、ビリヤードがあったそうです。
夜はビリヤードをやりに行って、坂下じゃ、しゃれてるな、ビリヤードがあるから、
と言われたそうです。ハイカラということでしょうか。
拝島は、独特な文化が盛んな時期があったということでしょう。

参考文献 昭島の歴史   昭島市教育委員会 著
      昭島の昔語り  昭島市教育委員会 著
      千人同心往還 拝島宿の興亡  宮岡 

写真・編集・構成 幡垣誠 田代教昌

歴史ファイルへ戻る