中神、熊野神社伝説

熊野神社、三霊殿
中神熊野神社は三神が奉れている。

伊弉冉尊(いざなみの、みこと)
速玉之男命(はやたまの、おのみこと)
事解男命(ことわけの、おのみこと)
又は(ことさかの、おのみこと)

伝説の人・篠彦兵衛と中野久兵衛
江戸時代、中神村から和歌山県の熊野三大社に数人が旅立った。
旅の長(おさ)を勤めるもの、篠彦兵衛といった。
おそらく彦兵衛は名主代か組頭であったろう。

彦兵衛一行は、伊勢神宮に参拝し、それから、
熊野総本山、三大社へ向かった。
熊野速玉大社・熊野本宮大社・熊野那智大社それぞれで、
三神のお札を拝領され、これを中神村に持ち帰る。
この旅は早く見積もったとしても、40日は掛かったであろう。

中神村に神仏の信仰深き人がいた。
名は中野久兵衛、8代目の中野久次郎当主の嫡男であった。
中野家は6代目で縞、織物などの仲買商で財を築いた。

7代目久次郎が初めて中野家として、名主になった。文政12年(1829年)
中神の獅子舞は、この前後ぐらいから、存在していたようだが
それ以前のことは定かでない。

嘉永4年(1851年)当時の熊野神社周辺は山林茂る森だった。
熊野大権現、御堂周辺は境内とは言い難い状況であったであろう、
したがって村の衆が集まり、獅子舞奉納など可能な広さがあったかは推測できない。
しかしながら現在、中神坂南にある日枝神社で獅子舞が、
演舞されていたとは伝承により高い確率で推定できる。

時代は幕末動乱に差し掛かっていた。(1853年,黒船来船)
1852年の初旬、中野久兵衛は熊野神社を再建すべく、誠心誠意、
尽力をそそぐのであった。一言で解釈すれば、寄進である。

鬱蒼(うっそう)と茂る森を切り開き、段丘に石垣を積む。
地所を平にして、神社境内を創設する。
三神のお札は社殿奧の御堂に安置され。
これをもって、熊野神社となった。嘉永5年(1852)。

由々しく存在する御堂の中に、拝領されたお札が安置されている。
しかしそれを、見た者は誰もいない。
それは絶対に見ては行けないという言い伝えがある。

熊野神社は延文5年(1360)の創建と伝えられています。
嘉永5年(1852)の再建。
歴史上では8代目、中野久次郎の寄進となる。
しかし伝説として、若き久兵衛の名がここに残る。
久兵衛はその名を残すが如く、9代目久兵衛と襲名した。

(昔語り・川島昭次  昭島郷土史・白川宗昭著書・参考)

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